西村 眞一(中西悟堂研究家/善福寺公園探鳥会担当)
今年で没後40年となる日本野鳥の会創設者・初代会長で、日本野鳥の会東京支部(現日本野鳥の会東京、以下当会)の初代支部長であった中西悟堂(1895 年~1984 年)は、大正15年(1926)年7月から昭和4年 (1929 年)11 月まで、東京市外千歳村烏山(現在の世田谷区北烏山)に住んでいた。
烏山では、米以外は一切火食をせず、水で練ったそば粉、松の葉や芽、大根の生かじりなどの自給自足の木食生活をしていた。近くの雑木林にゴザをひき、 他人からの干渉のない自主孤独な生活で、読書や執筆以外は野鳥や昆虫の観察をしていた。
この頃から、野鳥を籠の中で飼う風潮について懐疑するようになっていた。
そして昭和4(1929)年11月に烏山の生活を切り上げて、東京市外井荻町(現在の杉並区善福寺)へ転居した。
転居先は、かねて旧知の自然豊かな善福寺池の近くであった。
善福寺池の周りには、田んぼなどの湿地や雑木林などがあり、烏山に比べ野鳥は多く生息し、昆虫、爬虫類、淡水魚などの種類の数も多かった。
また植物も多く、キンラン、ギンラン、シュンランなどのランの仲間も花を咲かせていた。
この善福寺池での生物や風景を中西悟堂は、昭和 7(1932) 年に初めての鳥の本となる 『蟲・鳥と生活する』(アルス発行)の中で紹介している。
『蟲・鳥と生活する』(右:箱)
当時の野鳥を取り巻く環境は、飼う、捕まえる、食する、であった。
中西悟堂は、野鳥は一個人の所有物ではなく、国民の感情生活に潤いを与えるものとして、自然の中での生態が一番良いと、思うようになった。
善福寺池の近くには東京女子大学があり、英文学教授の竹友藻風がいた。
善福寺公園下池(奥の白い建物が東京女子大学) 2024年2月3日撮影
※中西悟堂が日本野鳥の会を創設した当時は、まだ下池のあたりは善福寺川が流れていて、下池は存在して無かった。
旧知の中西悟堂がスズメやカラスなどの野鳥の放し飼いをしているのに興味を持ち、竹友藻風は中西宅にたびたび遊びに来るようになった。
そうこうしているうちに、竹友藻風が鳥の雑誌を出版しないかと、中西悟堂に話を持ちかけてきた。
もっと広く野鳥の世界を一般に広める為にも、中西悟堂も本の出版の必要性を考えるようになった。
日本鳥学会の大御所の内田清之助にも鳥の雑誌の事を相談したところ、大変大乗り気で賛同を得た。
そして、昭和9(1934)年3月11 日に丸の内陶々亭にて、日本野鳥の会創設の座談会が行われ、同年 5 月に『野鳥』が創刊された。
『野鳥』創刊号
「この善福寺池での生物観察の日々がなかったら、あるいは野鳥への追求も始まらなかっただろうし、またそれが日本野鳥の会へと移行する必要もなかったかもしれない」と、中西悟堂は『愛鳥自伝』(平凡社発行)の中で記述している。
昭和5年(1930)年から、昭和 19 (1944)年まで善福寺風致地区内の14年間の記録を、『野鳥』(昭和19年9月号・終刊号)にまとめている。
年間87 種類の野鳥が 生息し、カワセミやオオコノハズクやサンコウチョウなど 23 種類の繁殖を記録している。さすがに現在は、オオコノハズクもサンコウチョウも繁殖はしていないが、カワセミは繁殖している。その後中西悟堂は、東京都西多摩郡福生町(現福生市)へ転居した。
『野鳥』終刊号
カワセミ親(右)子(左) 善福寺公園上池 2020年6月28日
当会主催の善福寺公園探鳥会は、昭和57(1982)年5月に始まり、コロナ禍で休止していましたが、
として再開いたします。
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