『90年前の最初の探鳥会』

西村眞一(中西悟堂研究家/善福寺公園探鳥会担当)

 各地にある日本野鳥の会連携団体による探鳥会が、全国で開催されている。東京都内でも、日本野鳥の会東京や日本野鳥の会奥多摩支部による探鳥会が、毎週のように開催されている。この探鳥会が始まったのは、日本野鳥の会が創立してから間もなくの昭和9(1934)年6月2日3日で、場所は静岡県小山村(現在は小山町)須走であった。但し本来は1週間前の5月27日28日であったが、雨天順延となり6月2日3日となった。文一総合出版から発行の松山資郎著『野鳥と共に八〇年』に、この探鳥会を主催した中西悟堂によるガリ版印刷の案内状が掲載されている。

 

松山資郎著『野鳥と共に八〇年』文一総合出版発行(1997年9月25日)

 

 “『野鳥の会』主催 富士裾野野鳥巣見学の御誘ひ”である。場所は富士須走一帯の山林。見学里程は三里。会費は一人10円。当時の日本野鳥の会の普通会員の会費は5円で、山手線の最低運賃は5銭であった。会費の内訳は、東京駅~御殿場駅間の往復汽車賃、御殿場駅~須走までの往復自動車賃、旅館(米山館)1泊3食代、茶菓子代、鳥巣案内者高田氏への謝礼であった。

中西悟堂がこの探鳥会を思いついたいきさつは、たびたび訪れてそのたびに新しく学ぶところがある富士山麓の須走の鳥の生活を、文筆や絵筆を持っている方々に、新鮮な目でそれぞれの角度から見て頂き、物ごとを粗末にされぬ方々が、須走の数多い鳥の巣や鳥の声を、どのように見たり、聞いたりするだろうかという、思いが起こった。早速、鳥類学者の内田清之助に相談したところ、それは良かろう、自分も出かけるとの返事だった。次に柳田国男にも相談すると、ぜひ実施してもらいたい、家族そろって参加するからと、直ぐに返事が返 ってきた。 昭和9(1934)年 6月2日3日の両日、日本野鳥の会主催による最初の探鳥会が、文壇 画壇のお歴々をメンバーとして、『富士山麓鳥巣見学会』の名称でを開催された。参加者は、内田清之助、柳田国男、杉村楚人冠、戸川秋骨、窪田空穂、北原白秋、中村星湖、金田一京助・春彦等文筆の方々、荒木十畝、奥村博、金沢秀之助等絵筆の方々で、案内役は鳥類学者の清棲幸保、須走の鳥に詳しい農林省勤務の松山資郎や中西悟堂が務めた。一行は 6月2 日東京駅に集合し、 午後1時40分発の汽車で御殿場駅に向かい、午後4 時18分に御殿場駅に着いた。

 

東京駅(戦前の絵葉書)

 

清棲幸保、松山資郎の出迎えを受けて、自動車に分乗し須走村八瀬尾の苔雲荘農場を見学後、宿となる米山館に着いた。

 

須走口米山館(戦前の絵葉書)

 

米山館では、地元の鳥寄せ名人の高田兵太郎の鳥声模写のツツドリ、オオルリの声のうまさで一同盛り上がった。夕方から天気は雨になったが、東京から取り寄せた虎屋のモナカや汁粉などで鳥談義が深夜まで続いた。 翌3日の午前6時に米山館にて朝食、7時に直ぐ近くの冨士浅間神社に集合した。

 

須走冨士浅間神社(戦前の絵葉書)

 

山中ホテルに宿泊していた内田清之助、清棲幸保、荒木十畝の到着を待ってから、参加者を 2班に分けた。1班には、柳田国男、荒木十畝、北原白秋、金田一京助、杉村楚人冠、奥村博、金沢秀之助の諸氏で、案内役には内田清之助、清棲幸保が付き、2班には、戸川秋骨、窪田空穂、中村星湖、金田一春彦の諸氏で、案内役は中西悟堂が付いた。冨士浅間神社から 富士山の須走登山道に入り、日野屋林で総勢 31名の記念写真を撮った。昨夜からの雨も朝には小降りになり、午前10 時ごろからは、陽も差してきた。夕刻まで須走で観察して、夜には東京に戻った。見学した鳥の巣は、キセキレイ、オオルリ、コサメビタキ、ビンズイ、 エナガ、アカハラ、アカゲラ、ヒガラ、シジュウカラ、コルリ、センダイムシクイ、アオジ、ノスリ、メジロ、クロツグミ、サンショウクイ、コカワラヒワ、ホオジロ、マミジロなどであった。「その後、この探鳥会参加者の方々の感想や印象記が、新聞や雑誌に発表されて、一般社会の人々に広く愛鳥心が植え付けられ、また日本野鳥の会の宣伝になったこと思われる。」と、案内役の内田清之助は、『野鳥』誌 昭和9(1934)年第4号で述べている。同号では参加した北原白秋が『野鳥を聴きて』の一文を寄稿し「中西君。野鳥を聴く会に参加した三日間の幸福を、私は何よりもお誘いくださった貴兄に感謝したく思います。」と、述べている。

北原白秋は昭和15(1940)年4月に当時住んでいた世田谷区成城から、杉並区阿佐ヶ谷五丁目に引越をした。転居から4、5ヶ月経った頃、北原白秋は 阿佐ヶ谷駅から西荻窪駅に行き、西荻窪駅を下車して善福寺池に行こうとしたが、目が不自由で足も衰えていたので、動けなくなってしまった。幸いなことに近くに知人がいて、事なきを得た。

(財)日本野鳥の会は、創立 70 周年となる平成16(2004)年の記念事業として、創設の精神と探鳥会の歴史と意義を確認するために、同年6月3日に須走で記念探鳥会を開催した。 併せて冨士浅間神社内に日本野鳥の会の支部や会員有志からの浄財で、創立70周年の記念石碑を建立した。日本野鳥の会東京支部も2万円を寄進した

 

冨士浅間神社記念石碑(2017年2月28日撮影)

 

黒御影石には、昭和11(1936)年 6 月に中西悟堂が須走で詠んだ『雨後』から「叢林にそそぐ雨の賢琴、たとへやうもない音とこだまの鬩ぎ合ひ。 とつぜん青白の世界に日が射すと 小瑠璃の聲が 寶石のやうに光の中にころがり出た。」の中西悟堂の自筆を彫った。

 

冨士浅間神社記念石碑『雨後』(2017年2月28日撮影)

 

令和6(2024)年5月19日に、かつて中西悟堂が近くに住んでいた善福寺池を中心とする都立善福寺公園で、日本野鳥の会創立90周年記念探鳥会として、善福寺公園探鳥会が開催された。また同探鳥会は、(公財)日本野鳥の会から後援を受けた。

 

日本野鳥の会創立90周年記念探鳥会『善福寺公園探鳥会』

 

同探鳥会は昭和57(1982)年5月16日に初めて開催されて、今年で42周年目となる。コロナ禍で4年振りの開催となったが、戦前の中西悟堂の記録にはないゴイサギを含めた16種類を記録し、参加者はいつもの倍近い65名であった。

 

ゴイサギ 善福寺公園上池

 

また探鳥会90周年目となる6月2日には、善福寺公園にて善福寺公園サービスセンター主催による“善福寺公園 ネイチャーイベント「中西悟堂が見た善福寺池を振り返る」”が、開催された。5月19日の善福寺公園探鳥会に引き続き、中西悟堂研究家の西村による『中西悟堂と善福寺池』の講演会があり、善福寺池がまだ上池だけの古地図から、日本野鳥の会創立当時の善福寺池の環境について、参加者32名に解説した。

 

“善福寺公園 ネイチャーイベント「中西悟堂が見た善福寺池を振り返る」

 

野外講演会『中西悟堂と善福寺池』

 

10年後の日本野鳥の会創立100周年記念探鳥会を、善福寺公園で開催したいものである。