西村眞一(中西悟堂研究家/善福寺公園探鳥会担当)
終戦後の昭和20(1945)年12月30日に、中西悟堂は疎開先の山形県から貨車一台分の荷物と共に上京した。
終戦後の混乱がまだまだ続く時代であったが、中西悟堂は『野鳥』誌の復刊を考えていた。
まだ出版事情も悪い状況下だったが、戦前に野鳥関係の出版をしていた日新書院が再興されたこともあり、日新書院と日本野鳥の会との共同出版事業として、昭和21(1946)年6月に、中西悟堂編集で『自然と四季』定価2円50銭の24ページの小冊子を出版した。
この中で中西悟堂は、「野鳥の会会員諸氏へ」と題し、“野鳥の会員諸氏から『野鳥』の復活を望む声が多数寄せられている。
また中には、『野鳥』の復活に今後の生きがいを託しているという書状が多数寄せられている”と、記している。いかに戦後の混乱期にも『野鳥』を生きがいとしている日本野鳥の会会員の切々たる思いが伝わってくる。
『野鳥』ではなく『自然と四季』の名にしたのは、野鳥の名では雑誌としての経済基盤が確立できないので、より広く多方面の方に鳥や草や木などの自然随筆を書いていただく趣旨で、『自然と四季』としたと記している。
結局、『自然と四季』は12月までに7号発行されて終了し、昭和23(1948)年4月に『野鳥』誌は復刊された。
『自然と四季』1号、2・3号、4・5号、6号、7号(西村眞一所蔵)
『野鳥』誌復刊号 昭和23年4月発行(西村眞一所蔵)
日本野鳥の会の支部は戦前において、全国に8支部があった。
ところが地元の東京には支部が無かった。当時東京は日本野鳥の会本部と同体との見方があった。
東京支部がやっと創設されたのは、昭和22(1947)年9月13日。
東京在住の会員に対し例会や探鳥会の通知をするために東京支部を設立することが、同年9月13日の日本野鳥の会幹事会で決定された。
支部長は野鳥の会会長でもある中西悟堂が兼任した。
東京支部の会費は、年額20円であった。
なお当時の葉書の値段は、50銭だった。
東京支部の会員数は100名ほどであった。
明治神宮探鳥会の名称を、「明治神宮探鳥会指導会」として、都下の各学校の教職員及び生徒一般を対象にしたが、支部会員や会員以外の参加も歓迎した。
今現在と同じ毎月第3日曜日で、集合場所も同じ北参道鳥居下であるが、集合時間は4月から9月までは午前6時と7時の2組で、10月から3月は午後1時とした。
昭和22(1947)年9月21日に東京支部の最初の明治神宮探鳥会が開催された。
当日認めた鳥は、昭和24(1949)年6月号の野鳥誌に、籾山徳太郎が『明治神宮の鳥一覧』を記している。
その記事によると、ハシブトガラス、ハシボソガラス、オナガ、ムクドリ、コムクドリ、スズメ、コカワラヒワ、ホオジロ、キセキレイ、メジロ、シジュウカラ、モズ、ウグイス、ツバメ、カワセミ、オシドリ、キジバト、コジュケイの18種類だった。
当時中西悟堂は、西多摩郡東秋留村二宮(現在のあきる野市)で生活していたので、なかなか明治神宮探鳥会に参加できなかったが、東秋留村から世田谷区に引っ越してからは、節目となる昭和31(1956)年2月19日の100回目の明治神宮探鳥会には娘のハルノさんを連れて参加し、また昭和39(1964)6月21日の200回目の明治神宮探鳥会にも参加して、明治神宮の鳥について参加者98名に話した。
中西悟堂の手紙 左:世田谷区砧町 右:東秋留村二宮 (西村眞一所蔵)
最初の明治神宮探鳥会から77年後となる今年の9月15日に、明治神宮探鳥会が開催された。
参加者は41名でした。集合場所は、77年前と同じ北参道鳥居下であった。
9時から11時45分まで探鳥し、カイツブリ、キジバト、アオサギ、コゲラ、ハシブトガラス、ヤマガラ、シジュウカラ、ヒヨドリ、メジロの9種類だった。
ちなみに私が初めて参加した昭和52(1977)年1月16日の明治神宮探鳥会の認めた鳥は、オシドリ、マガモ、コガモ、コジュケイ、キジ、キジバト、ヒヨドリ、モズ、アカハラ、ツグミ、ウグイス、ヤマガラ、シジュウカラ、メジロ、ホオジロ、アオジ、アトリ、カワラヒワ、シメ、スズメ、ムクドリ、オナガ、ハシブトガラスの23種類だった。
明治神宮にキジがいて、驚いた記憶がある。
77年目の明治神宮探鳥会
日本野鳥の会東京
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